POINT OF VIEW ポイントオブビュー

文筆家

仲俣 暁生

「日常の謎」系ミステリーの古典がマンガで復活

ミステリーのジャンルの一つに「日常の謎」系と呼ばれるものがある。殺人事件のような特別な出来事が起きるわけでもなく、日常生活の一コマのなかにある謎と、その解明が主題とされる推理小説のことだ。

その第一人者として知られるのが直木賞作家の北村薫だ。文学部に通う女子大生の「私」がワトソン役、噺家の「春桜亭円紫」がホームズ役を務める北村のデビュー作『空飛ぶ馬』が発表されたのは1989年3月。この二人が主役を務めるシリーズものの短編5作が収められており、当初は北村が「覆面作家」だったこともあり大きな話題となった。

普通の人の暮らしなかの、ふとした出来事の奥底に潜む真実を、しみじみとした情感を失うことなく、しかも論理的に解き明かした『空飛ぶ馬』はデビュー作でありながら、きわめて完成度の高いものだった。北村薫の登場がミステリー界に与えた衝撃は大きく、フォロワーともいうべき「日常の謎」系の作家が相次いで生まれた。「円紫さんと私」シリーズと呼ばれるようになったこの系譜の作品はその後もコンスタントに発表されており、2015年発表の『太宰治の辞書』まで計6冊がまとまっている。その記念すべき第1作品集『空飛ぶ馬』の第一話「織部の霊」がマンガ化され、リイド社のウェブサイト「トーチweb」で公開されたのは2019年6月のことだ。残る4作も順次マンガ化され、この4月に『空飛ぶ馬』の全5話が単行本として刊行された。北村作品のマンガ化を手掛けたのはタナカミホ。講談社のコミック誌「ITAN」が主催するスーパーキャラクターコミック大賞で第5回の優秀賞を受賞してデビューし、『いないボクは蛍町にいる』という作品があるタナカは北村のこの歴史的名作を一話あたり50ページという長さで巧みにマンガ化している。

マンガ版『空飛ぶ馬』は原作の持ち味である叙情性と論理性だけでなく、語り手の「私」のなかにある、自分が女性であることへのそこはかとない距離感の描き方がうまい。声高にそのことが語られるわけではないが、北村の原作にもひそかに込められていたフェミニズム的な主題がタナカというすぐれたマンガ家の手で鮮明になっている。
デビュー作の登場から四半世紀を超す年月が流れるうち、作中の「私」や「円紫さん」も同様に歳をとった。このシリーズは「私」が青年から大人になっていく過程を描いた、息の長い「成長小説」であり、連作を読み進む読者も少しずつ成長していった。作中で描かれる風景、例えば「私」の通う大学や彼女をとりまく社会のモデルは発表当時の1980年代後半よりも前、おそらくは北村自身が経験してきた時代だろう。

青年が悩み、逡巡するのはいつの時代も変わりないが、「円紫さんと私」シリーズには、いまより伸び伸びと若者が悩み、それを通じて成長できた時代の記憶が込められている。その空気がタナカミホの手で甦り、現代の若い読者の手元に届くとすれば当時の読者としても大変に喜ばしい。ぜひ続編も描き継いでほしい。

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